半農半音楽4
文明は永久に悩む宿命に生まれた。その名が示すところの反対物を包括し得ないからだ。イエスとノーの選択には決着は無い。非文明な尊いものはその姿を悲しみと変えて文明を悩ませ、非文明なるものに目覚めよ、和合せよと説いている。
私は観念上のお遊びをしているわけでは決してない。我々は一時たりとも目に見えない不思議の世界を離れることがない、それにもかかわらずその世界の存在を認めようとしない。こう書くと今住むのと別世界が存在すると主張しているようでもあり、何より私の印象を胡散臭くする。だがそれも人々の非実体の世界に対しての態度の表れの一つだ。
私達はお互いに惹かれ合う。慈しみを感じる。怒りを覚える。泣けてくる。笑いが止まらない時がある。友達にばったり出会う。うっかりウンコを踏んでしまう。何故か酒が美味く感じる日がある。せんずり後は虚しくセックスは気持ちいい。食って寝てまた起きる。生まれて死ぬ。そして誰しもの一挙手一投足が他者の生死と無数の糸でつながっている。
自然な畑では無数の動植物の一生とその係わり合いが見えてくる。そこに私も居る。まだまだ未熟な私が栽培方法においてそこのバランスを崩した時、害虫の大量発生などが起こる。しかしそれは大問題ではない。そこで私は自然に学ぶことができ、そして自然は私の解答を受け元通りの姿に戻るほど寛容である。尽きることのない全ての根源である。バランスを得た畑に、害虫も益虫も区別は無い。雑草もまたそうである。
生き物の営みを見下ろす私の眼はまるで人間界を見ている神の眼のようである。そこに立つ私もまた小動物や植物と生死を共にしている。ひょいと小石をつまむのもそれが砂に戻るまでの一生に関わる行為だろう。そこで野菜という命を育てそれを我が命とする、これはまるで神の、創造主の仕事である。神やら仏というのは方便だが、とにかく「それ」は私達それぞれの五感を通じてしか世界を見る、あるいは創ることができないのだろう。そのために私は作られたのか。すなわちそれは私自身がそれであるということなのか。私が見るのかそれとも見られているのか、そのどちらでもあるのか。
このことはべつに農作業に関わる時にのみ言えることではないと思う。我々の成す全ての行いは神のみ業である。だが農作業を始めとする、生命と直に向かい合う場においてはより直覚的に「思い出せる」と思う。機械に囲まれて機械のように生活していても、それは清浄なままで我々それぞれとともに在る。理想の世界が未来や余所にあるわけではない。目の前の現実を、瞬間を真実の眼で捉えればそこがすなわち浄土となるのではないだろうか。
なんかすごいとこまで話が飛んだな。。






