半農半音楽3
今回からコラムの名前を「半農半音楽」に改めたいのだが皆さんどう思われるかな。
執筆現在満喫中の九州ツアー中に、
「渓さんはクリスチャンなんですか?」
と聞かれる。これは苗字はディオールかと尋ねられたわけではなく、クリスちゃんを指名したんですか−(課長の好みって変わってるなあ)、と言われたわけでもない。キリスト教徒のディオールさんですか?と言われたということだ。これは実は初めてではない。Ett「無茶の茶」(coupレ−ベル)中の私の曲「誰」の歌詞を読んで皆さんそう思われるようだ。何故キリスト教徒と思われたかはよく聞かなかったが、他にもあの歌はなんかひっかかる、あるいは理解し難いという人は多い。あの詞は一般的事象を扱ったものではなく、何らかの宗教と関係あるのではないかと思われたのだろう。歌詞掲載はJUSRACが煩いから止める(ウソ)。携帯電話で打ち込むのは面倒臭い。
あれは私の持つ宗教の教義とかを基に書いたわけではない。私は信仰の対象を持たない。およそ名の付く宗教には拠らない。だがあえていえば日本人全てがそうであるように仏教、ことに禅の影響は受けているであろう。そういう人間が心情を表した歌詞を同じ人種の人間が読んで、その歌詞をキリスト教的と見なすところが非常に興味深い。これは、日本人のキリスト教観を示唆するところであり、さらに人々の仏教への理解度あるいは宗教そのものへの態度を現すものではないか。
もうひとつ興味深いことがある。こんなにもこの曲に何か引っ掛かる思いを持つ人が多いのは、自分は誰なのか、この人は誰なのか、この人にとって私は誰なのか、私はこの人にとって誰なのか、何者であるのかと考えている人、悩んでいる人が少なからず居るということではないか。
文明化社会に住む大人の全員がそう思っているのではないか。その思いに蓋をしても、思い自体は消えない。見ないようにしているというだけで、あるいはその自覚さえ無くとも、モヤモヤ自体は消えない。これは文明人がずっと抱えてきた共通の悩みで、言葉にできない、つまり人間的な知恵のみでは解決できない、文を以て明らかにできないものだ。正面から人生に臨む者にとっては最大の命題である「我という存在の謎」は、いかなる思想哲学も科学も未だに解いていない。科学は一般的な事象を扱い、一定の法則性を求める。存在を規定しようとする点ではだいたいの哲学も科学と似たような所も多いだろう。だがこの我というものは他人のものでは代わりが効かず、終始ふらふらと定まらず変化し、時には強すぎて邪魔になり時には忘れられる。成長しているようで元のままだったり、無邪気なままのようでどっしり座ってきたりもする。
自由自在のこの我というものを持っていながら、我々は経済や科学、規則や道徳、そして時計の刻む時間に縛られた世界に生きている。矛盾に堪えられず心を病む人が多いのは当然だ。我々はもはや自らが作り出した物の虜となっている。カメラや赤外線センサー等があなたの心まで読めないのは誰にも納得できるだろう。我々の眼も機械化しきってしまうとそれらの道具のように事物の外見しか認識できない状態になってしまうのではないか。
中途半端なところで切るが続く






