動物と子供
先週の拙稿は実はmixi日記を転載しただけのものだった。知人友人のみに向けた、もしくは誰にも宛てない文章を掲載してしまったわけだ。にもかかわらず、なのかそうであるが故になのか多少の反響が有った。
一週間経って考えるのは「動物」という語の用法についてのみだ。これには誤解を生む要素を多分に含ませたと反省する。「動物的」と評した各種行為は動物側からするといずれもいかにも人間的なものだ。己の欲望のみに従って行動するのは人間のみであり、よって動物的と書くべきではなかった。人でも動物でもない、「畜生」の所業とでも書けばよかったか。
動物には我々のように知恵が具わっておらず愚かであるという見方、動物は我々のように罪で穢れておらず純粋であるという見方、これらはどちらも我々の手前勝手な考えでしかない。言うならば、それはどちらも我々自身のことである。動物を通して我々を見ているだけだと私は思う。 鯨は我々のように知能が高いから殺戮してはならぬが牛や豚や鶏は食用にするためだけに産まれさせ殺してもよい、ということを平気で実行できるほど我々は勝手だ。彼らはただ弱肉強食の世界に生きていると考えるのも同様だ。彼らはただあるがままなだけである。きわめてSF的に考えるとひょっとすると動植物は高度な進化の末我々のような迷いを棄てることに成功したのかもしれないが、今は余分な想像力を働かせるのは止めておく。とにかくいたずらに自分より弱い者を片っ端から噛み殺しているのは人間だけであり、この点で我々と動物との間には断絶的な隔たりがある。
たとえ手前勝手な動物愛護であったり、愛玩であったり、彼らの世界への憧れであったとしても、その気持ちの中には他者への友愛の精神が在る。これはおそらくヒトにしか具わっていない点だろう。人間性と言ってもいいかもしれない。あるがままの世界から放り出された我々がそこに還るために唯一授けられた道具のようなものである。空を飛ぶ鳥や野を駆ける馬、咲き誇る花や聳える山河の境地に到るには、我々は先ず自身の内を突き詰めなくてはならないのではないだろうか。
音楽コラムではないばかりか今回掲げたタイトルからも逸れた。このまま次回へ。






