2009/08/31
自給力UP
先日の我が家の食卓には自家製のものが多く揃った。
枝豆の塩茹
大根醤油漬
胡瓜の漬物、和え物
辣韮梅酢漬
ス−プに入れたモロヘイヤ
メインディッシュの味付けに使ったハバネロとシ−ド・オイル
自分で育てた食物で自分の身を保つという行為は実に簡潔で力強い。言葉を差し挟む余地が無い。これが人の本来あった姿であったが現代ではそれは難しいことになっている。
5、6年の間「農」を学んでいたが、この二ヶ月間自分の畑を借りて開墾から取り組んだことでさらに多くを学んだ。開墾日記を振り返るとのべ19日しか通っていないのだが、その短い期間内でも自己に変化が起こってきた。
私自身が抱えていた疑問や問題に対する答がどっと押し寄せてきた。ここで疑問、問題、答というのは単に方便である。押し寄せたというもまたそれである。自身の内に沸き起こった、でもよい。要は言葉の問題ではない。私の「問題」があなたのそれではないのと同様に、私の言葉は私のものでしかない。
ポピュラー音楽家としての私の悩みは、世の中と折り合いがつかないことであった。平たく言うとどうして私の音楽は理解されないのかということだ。
それは単に私がJ-POPと自分の歌を比較していたから起こった悩みだった。なんだかんだ言いつつ相対の世界に生きていた。そこには安心も無く、自己も無い。
先日偶然テレビで、ある歌謡曲の作詞作曲家の特集を観た。齢70を越えた大御所とされている人物のものだ。私に共感できる部分は全くなかった。もちろん純粋に作品だけを捉えての話である。J-POPと何ら変わらないと思った。
「こんな音楽無くなってしまえ」−今まではこう思ってきた。そのために戦ってきた部分もある。作品自体にもきっとそういう想いが入っていただろう。常に音楽とそれを取り巻く環境へのアンチテーゼがどこかに必ず在り、それは実際の私の世界の捉え方、世界との関わり方にも現れていた。
しかしそれは純粋な芸術、芸術的態度とは言えないかもしれない(芸術という言葉を使うとまた誤解を生む人がいるだろう。私はここで「芸術とは自然の写しである」という考えの下に書いている。広義には、自然に生きる人の一挙手一投足でさえ芸術とも言える)。
我他彼此を思うのを止め、私の音楽をやることに今更ながら得心がいった。畑を耕すのもその内だ。全ての活動もそれだ。私は世界の中の米粒のような一点だが、誰にも登れない峰でもある。
最初からそうだったのだ。忘れていたことに気付いただけだ。人間中心の世界のほとんどは茶番だ。その中で見失っていたことだ。私はこれまで茶番劇の中の囚人だった。
しかしその茶番も自然の中の一つだ。大いなる連鎖(システムという語は当てたくない)の中で人間側で担う役割の一つだ。人間の世界、人間本位の世界は破滅に向かうように見える。だがおそらく自然あるいは宇宙はもっと大きな規模での均衡を保っている。
動物は生命の循環体系の外から自己を見つめることができない。少なくとも我々には今のところそう見える。我々人間も我々の社会の内での色々に囚われているのみでは動物と同じだ(戦争してみたりウイルスを作ってみたり選挙前ごとにスキャンダルで人の目をそらしてみたり、どれを取っても動物的所業だ)。
しかし我々は精神の働きを以って生命の不思議を内から外から眺めることができる。そしてその感覚を時に同胞に伝え共感することができる。
それが「人」であり、芸術家であり、愛を知る者、慈悲の人である。
以上は「今日」「私が」「思ったこと」である。
読んでしまったあなたの内に起こるものはあなた自身だけのものである。
枝豆の塩茹
大根醤油漬
胡瓜の漬物、和え物
辣韮梅酢漬
ス−プに入れたモロヘイヤ
メインディッシュの味付けに使ったハバネロとシ−ド・オイル
自分で育てた食物で自分の身を保つという行為は実に簡潔で力強い。言葉を差し挟む余地が無い。これが人の本来あった姿であったが現代ではそれは難しいことになっている。
5、6年の間「農」を学んでいたが、この二ヶ月間自分の畑を借りて開墾から取り組んだことでさらに多くを学んだ。開墾日記を振り返るとのべ19日しか通っていないのだが、その短い期間内でも自己に変化が起こってきた。
私自身が抱えていた疑問や問題に対する答がどっと押し寄せてきた。ここで疑問、問題、答というのは単に方便である。押し寄せたというもまたそれである。自身の内に沸き起こった、でもよい。要は言葉の問題ではない。私の「問題」があなたのそれではないのと同様に、私の言葉は私のものでしかない。
ポピュラー音楽家としての私の悩みは、世の中と折り合いがつかないことであった。平たく言うとどうして私の音楽は理解されないのかということだ。
それは単に私がJ-POPと自分の歌を比較していたから起こった悩みだった。なんだかんだ言いつつ相対の世界に生きていた。そこには安心も無く、自己も無い。
先日偶然テレビで、ある歌謡曲の作詞作曲家の特集を観た。齢70を越えた大御所とされている人物のものだ。私に共感できる部分は全くなかった。もちろん純粋に作品だけを捉えての話である。J-POPと何ら変わらないと思った。
「こんな音楽無くなってしまえ」−今まではこう思ってきた。そのために戦ってきた部分もある。作品自体にもきっとそういう想いが入っていただろう。常に音楽とそれを取り巻く環境へのアンチテーゼがどこかに必ず在り、それは実際の私の世界の捉え方、世界との関わり方にも現れていた。
しかしそれは純粋な芸術、芸術的態度とは言えないかもしれない(芸術という言葉を使うとまた誤解を生む人がいるだろう。私はここで「芸術とは自然の写しである」という考えの下に書いている。広義には、自然に生きる人の一挙手一投足でさえ芸術とも言える)。
我他彼此を思うのを止め、私の音楽をやることに今更ながら得心がいった。畑を耕すのもその内だ。全ての活動もそれだ。私は世界の中の米粒のような一点だが、誰にも登れない峰でもある。
最初からそうだったのだ。忘れていたことに気付いただけだ。人間中心の世界のほとんどは茶番だ。その中で見失っていたことだ。私はこれまで茶番劇の中の囚人だった。
しかしその茶番も自然の中の一つだ。大いなる連鎖(システムという語は当てたくない)の中で人間側で担う役割の一つだ。人間の世界、人間本位の世界は破滅に向かうように見える。だがおそらく自然あるいは宇宙はもっと大きな規模での均衡を保っている。
動物は生命の循環体系の外から自己を見つめることができない。少なくとも我々には今のところそう見える。我々人間も我々の社会の内での色々に囚われているのみでは動物と同じだ(戦争してみたりウイルスを作ってみたり選挙前ごとにスキャンダルで人の目をそらしてみたり、どれを取っても動物的所業だ)。
しかし我々は精神の働きを以って生命の不思議を内から外から眺めることができる。そしてその感覚を時に同胞に伝え共感することができる。
それが「人」であり、芸術家であり、愛を知る者、慈悲の人である。
以上は「今日」「私が」「思ったこと」である。
読んでしまったあなたの内に起こるものはあなた自身だけのものである。





