誰でも音楽が奏でられる喜び
というフレコミで売られているアレ。
究極のところを言うとやはり間違っている。
アレから音楽に目覚める人がいるであろうことを考え併せたとしても、やはり否と言わざるを得ない。
俺は音楽のことしか分からないからこう言うが、コントローラーのバチとテレビのスピーカーから出る偽物の太鼓の音、それらは我らが今感じているこの美しき鼓動とは全く関係ないものだ。
ただ腕を振り回せば鳴るようなギターに似せた音も、我らの心の琴線の響きとは全く関係ない。
上手下手は問題ではないが、実際の楽器に自分の手で触れて音を出すことが大切なのだ。
いい音を出そうとするとそれなりの修練も必要だが、それはそれでいいのだ。
べつに機械を使ってお手軽な擬似体験なんてなくていいのだ。
そこから先の段階に進む気のない人はどのみち音楽を奏でるにも聴くのにも向いていない。
ある面でこのことは万事に共通する見方ができよう。
それなりに手をかけないといいものはできない。
そしてそれを重ねた者だけがその道に入ることができる。
それはプロとかアマとかそういった表層的な次元の話ではないが。
しかし美術、陶芸、写真、音楽、これらにおいては近頃特に「なんちゃってプロ」が多いように思う。
あと文学か。文章全般ともいっていい。
きちんと言葉を使える人だけに文筆家の資格を与えればいいと思う。
実のところ言葉の乱れのほうが音楽の乱れよりも気になるのだ。
日常生活の中で音楽よりも触れる機会が多いからだろう。
ふいに美しい言葉に触れる時、都会の喧噪の中に居ながらも静かな山の息吹を感じることがある。
日本語の後ろには、我が国本来の美しさと、日本人の美学がある。
美しい日本語を話す人の内に、美しい日本人像が見出だせることは少なくないと思う。
公衆の目に触れる文は、日本語の美しさを理解している人にだけ書いてほしいと思う。
人間同士のコミュニケーションの方法の大部分が言葉という不完全なものに頼っている以上、多数の目に触れる文章は言葉という道具の本質を理解した人の手で書いてあってほしい。
その辺のギター弾きにコラムなんか書かせてはいけない。あ、ワシか。
(漫画は本文とは関係なく次回へ続く)
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